ふつう と とくべつ の境界で。

うつ病、パーソナリティ障害を抱えて生きるわたしのありのままの記録。

教育学部。

わたしは、精神保健福祉士だけど、福祉系大学の出身ではありません。

わたしは、教育学部の出身です。

 

前にも書いたかもしれないけれど、

わたしは、大学で、心理学を学ぶことが夢でした。それは中学生の頃からの夢で、学校に通う支え、勉強を頑張る支えでもありました。

高校生になって、進路を決めることになったとき、わたしの第1志望はもちろん心理学部と名前のつくところでした。

しかし、わたしは、大学受験に失敗。経済的にもモチベーション的にも浪人という選択肢はなかったから、かろうじて合格した大学に進学するしかなかったんです。

 

それが教育学部でした。

センター試験が終わって、出願できそうな学校の中で、教育心理学が学べるコースということで受験していたところでした。

 

わたしは学校歴コンプレックスに陥ったし、教員免許をとらないと卒業できない=教育実習にいかないといけない学科に入ってしまったことを後悔したし、毎日無気力でした。

 

それでもなんとか大学には通っていて、単位も真面目にとって、各種実習もこなして、卒論も書いて、卒業しました。

 

メンタルヘルスに関心のあったわたしは、大学卒業後に、精神保健福祉士の養成学校に進学して、福祉の道に進むことになりました。

 

ずっと認められなかったんです。教育学部に進学して、教員養成課程で単位をかき集めていたあの頃のこと。

 

でも最近ようやく受け入れられるようになってきました。わたしは福祉の世界に入ったけれど、教育学部で学んだことがわたしの土台をつくってくれている、いまに繋がっていると思えるようになってきたのです。

何かきっかけがあって、パッと受け入れられたというわけではないのですが、

社会人としての時間が長くなるにつれ、今後のビジョンも考える中で、

教育実習をしたことも、それ以外の実習に行ったことも、いまはわたしの視野を大きく広げてくれた良い経験だったと思うようになりました。

それは、精神保健福祉士の働くフィールドだったり、療養中に独学でとった保育士の働くフィールドだったりでも生かせるものばかりだと思います。

 

無駄なことなんてなかった。

 

あの頃、いろいろな思いを抱えながらも、頑張って学んでくれたわたしが、いまのわたしを支えてくれていると、心から思います。すべては繋がっているのだと。

 

いまは教育学部で学んだこと、教員免許をとったこと、教育実習を乗り越えたこと、それらは、じぶんの強みのひとつだと、すこしずつ思えるようになってきました。

教育という分野に興味を持てているじぶんが好きです。中学生の頃から、あんなに学校が嫌いだったのに、皮肉です。でもそういう縁だったのかもしれません。学校が嫌いだったわたしが教育学部に入って、教員免許まで取得するとは、誰が考えたでしょうか。でもそのおかげでわたしは教育学を学ぶことができ、じぶんの痛いところに、じぶんのつらかった思い出に、いまやっと向き合うことができているのかもしれません。

 

時間はとてもかかったし、いまでも違う道を選んでいたら、と思うことがないと言ったら嘘になるし、学校歴コンプレックスも完全にはなくならないけど、

いまは当時のじぶんを認めることができるようになりました。よかった。

 

どこに向かっての一歩なのかはわからないけれど、

一歩踏み出せたような気がします。

 

こうやって過去の選択を、すこしずつじぶんのものにしていくんだろうなと思う経験です。

まだまだ消化できない過去はたくさんあるけれど、時間がかかってもいいから、その経験を捉え直す作業をしていきたいなと思います。

 

いまは仕事を辞めてしまって、次にどこで働くかを考えているところです。

いままでは福祉の道にこだわっていたけれど、教育のフィールドで働くのもいいかな、なんて思うじぶんもいます。人生ほんとにわからない。

 

また先のことが決まったら報告します。

じぶんとよく向き合って考えていきます。

 

今日はこのへんで。

 

 

もしもの話。両親の離婚。

今日はもしもの話をします。

もうちょっと具体的に言うと、もしも親が離婚していなかったら今頃どうしていたと思うかという問題についてです。

 

わたしの親は、わたしが小4のときに離婚しました。

今のわたしは、大学をでて、精神保健福祉士になって、精神疾患を発症して、何回も何回も入退院を繰り返して、やっとのことで週1だけバイトに行って、経済的にはほとんどを障害年金で賄っている状態です。独身です。

 

わたしは母親に引き取られたのですが、母親はわたしによく離婚のせいで病気にさせたと謝ります。

わたしはその言葉を受け入れることができません。それを言われるととても悲しくてとてもつらいです。母親の人生をわたしのせいでだめなものにしてしまっているという感覚になるからです。

 

その言葉を受け入れないのだとしたら、

病気になったいまの自分と、親の離婚は関係ないと言っているようなものですよね。

環境要因に1ミリも影響がなかったかと言われれば、それは嘘になるかもしれません。

でも、わたしは両親のせいで、特段、両親の離婚のせいで病気になったとは思っていません。

 

わたしがいまの診断名どおり、パーソナリティ障害であるならば、

なにかのきっかけで、どこかで発症していたと思うのです。それが何なのかはわからないけれど。

 

でも独身ではないかもなあとは思います。まわりに結婚のモデルケースとなる両親がいなかったことは、わたしにとって大きなことだと思っていますし、これからも難しい問題だと思っています。

 

いまのわたしは精神保健福祉士をとっているけれど、それは葛藤の末、両親の離婚がむしろあったからこそ出会えた職種であると思うので、逆にその出来事がなかった自分を想像することができません。ほかになにか別のことに興味を持って、やってみようという気持ちになっていたかと聞かれると疑問です。この職業に出会えたことは、わたしの幼い頃の境遇によるものだと思うので、良かったと言えば良かったのかもしれません。

 

もしも両親が離婚していなかったら、わたしは精神保健福祉士にはなっていないと思います。

結婚していたと思います。

でも病気は発症したような気がします。根拠はありませんが。それは両親の離婚のせいではなく、わたしのパーソナリティの脆弱さからです。両親の離婚のせいで病気になったわけじゃないと、それはずっと言い続けているし、信じています。

 

まとまらない文章で申し訳ありません。

最初の問、親が離婚していなかったらわたしのいまの人生はどうなっていたか、

それは全く別物になったかもしれません。

でもわたしはわたしなりにこの境遇でこの人生を歩んできたから、いまがあります。

だから、その問いにいまはまだうまく答えることができないのです。よく考えなければならないことだと思っています。

 

よく、離婚が子どもに与える影響、とか検索してみたりするけれど、正直たいしたことはどこにも書いてありません。それは自分自身や体験した人にしかわからないことなのだと思います。

 

もしこれを読んでくださっている方の中で、離婚を経験されている方、わたしと同じく親が離婚している方がいたら、話がしてみたいです。

つらかったですか?つらかったとしたら何がつらかったですか?もしくはいま何がつらいですか?人生にどんな影響を与えていますか?

 

わたしはまずは、大好きだったお父さんが突然いなくなってしまったことそのものが純粋に悲しかったです。両親の離婚はわたしの様々に影響を与えているとは思うけれど、それは病気になったこととは関係ないと思っています。だったら同じ環境で育った弟もそうなっていると思うから。彼はたくましく生きています。

 

答えのない問、もしもの話です。また思ったことがあれば書いていこうと思います。

 

最後にまた宣伝になりますが、家族、それこそ母親との関係、父親との関係についてもいろいろ書いています。よかったら下のリンクから、試し読みだけでもしていってください。わたしの闘病日記です。

どうぞよろしくお願いします。

 

悪い季節が続きますので皆様ご自愛くださいね。

当事者であり支援者であること

わたしは精神疾患当事者です。

いま診断されている主な病名は、うつ病と情緒不安定性パーソナリティ障害です。

通院精神療法はかかせないし、薬も手放せません。

 

わたしは精神保健福祉士でもあります。

一応支援者の立場でもあります。

 

当事者になってから、勉強されて資格を取る方は割と多いかもしれまんが、

わたしは資格をとって働いている中で、当事者になりました。

 

当事者であって、寛解したわけでもなく、今なお病勢がある、

そういう者が支援者をやっていいのか常に葛藤があります。

 

いまの仕事は精神保健福祉士として採用されているけれど、

毎日がっつりとケースワークをしているわけではありません。

書類作成補助みたいな事務仕事が多いです。

でもその中でも患者さんとコンタクトを取らないといけない場面はあります。

そんなときは自分が当事者だという意識はどこかに飛んでいってしまっていて、ふつうの顔をして仕事をしています。

で、帰ってきて薬を飲むときに、ああわたしも当事者だったんだなって思うのです。

 

調子が良かったときは、週3まで勤務できていましたが、

いまは体調の波が落ちているときなのか、

勤務は週2になり、とうとう週1になりました。

情けないしか言えないのですが、週1でもいいと配慮し、受け入れてくれている職場にはとても感謝しています。

 

当事者になってわかることがたくさんあります。

病気自体の苦しみもそうだし、仕事に対する気持ちとか、周りに対する思いとか、周りからの声に対する反応とか、環境との問題とか、その他いろいろな葛藤とか。それこそ支援者に望むこととか。。

それらはわたしが病気にならずに精神保健福祉士をやっていたら、わからなかったことだと思います。

 

だからそれらを活かしたいと思うのです。

当事者になったわたしだからこそできる支援やかけられる言葉とかを見つけていきたいなと思っています。でも、決して自分の経験だけでモノを語る支援者にはなりたくないので、いろいろな知見を増やしていきたいです。

 

もっと自分と対話し、もっとしっかり自分を捉えられるようになって、病気と共存しながらも、わたしにしかできない支援ができるようになるのが目標です。

 

いまは精神科クリニック勤務ですが、いつかは病棟のある病院で働くことも目標のひとつにあります。やってみたいことはたくさんあるし、勉強したいこともたくさんあります。

いまはそのときのための力を蓄える時期だと、準備期間だと思っています。

 

まずは、いま与えられている仕事を一生懸命やろうと思います。結局はそれしかできないから。 

そして、当事者が支援者をやるということについても、逃げないで、ちゃんと向き合っていきます。

 

 

前回の記事でも書きましたが、自分の闘病日記を本にして販売しています。

当事者の気持ちも書いているつもりですし、かかわってくれた先生やワーカーさんたちのこともたくさん書かせてもらっています。

当事者の方はもちろんですが、ご家族や支援者の方、これから支援者を目指す方にも、なにかを感じて頂けるのではないかと思います。

試し読みもできますので、サンプルだけでも是非のぞいていってくださるとうれしいです。

 

仕事も毎日の生活も、自分らしさを見つけながら頑張ろうと思います。

皆様もご自愛ください。それではまた。

闘病日記が本になりました。

このブログずっと放置してしまっているけれど、

わたしにとっては大切な場所のひとつです。

 

このたび、Amazonから、わたしの闘病日記をまとめた本を出版しました。

【ふつう と とくべつの境界で。】

このブログのタイトルを、本のタイトルにもしました。このブログ記事からの引用も本文中にあります。

 

Amazonでは、Kindle本(電子書籍)と、ペーパーバック(紙の本)のどちらでもお読みいただけます。

印刷代などの関係でペーパーバックはやや割高です、ごめんなさい。

Kindle版はスマホでも読めます。また、Kindle Unlimitedにご加入の方は無料で読んでいただけます。

 

うつ病と診断されてから約8年間分の日記を1冊の本にしたので(それでももちろん抜粋)、なかなかの長編になってしまいましたが、自分ではひとつ形にできたことが成功体験だなと思っています。

 

あくまで一例ではありますが、精神疾患当事者の日常生活のこと、精神科入院のことなどを知っていただける機会になるかと思います。

当事者の方、支援者の方、精神科や精神疾患に関心がある方などに読んでいただけたらうれしいです。

 

わたしはこの本を誰のために書いたのか、、やっぱり自分のためだと思います。自分の記録を形にしたいと思ったから。うつ病やパーソナリティ障害の当事者の考えや生活を多くの人に知ってもらいたいと思ったから。完全に自己満足の世界です。わかっています。

でも、自分のために書いたけれど、それがほんの少しでも誰かの何かに触れることができたなら、この本を出版した意味もあるのかなとも思います。

 

どなたにでも読んでいただきたいのは前提として、

リアルの生活の中で、読んでもらいたいなと思う人は何人かいます。今までお世話になってきた方々です。主に支援者や友達などです。この本とともに感謝の気持ちを伝えたいです。こんなもの送りつけられても迷惑なだけかもしれませんが。。

あとは、これからわたしと親しくなってくださる方にはぜひ読んでいただけるとありがたいなと思っています。わたしのことを知ってもらいたいからです。

 

Amazonのリンクから、試し読みもできるので、よかったら、試し読みだけでもしていってください。お気に入りの表紙だけでも見ていってください。

 

久しぶりのブログが、自分の出版本の宣伝でごめんなさい。みなさまご自愛くださいね。

どうぞよろしくお願いします。

解消されない寂しさ

わたしは寂しい。

毎日毎日寂しくて空虚でしかたがない。

 

パーソナリティ障害と診断されている。

主治医が言うには、

自他の境界が薄い、自我が確立されていない

それが1番であり最大の問題だそうだ。

 

診察で、毎日寂しいですと言った。

みんなは寂しくないんですかと聞いた。

主治医は、みんな全く寂しくないわけじゃないと思うけど、わたしほど強く寂しさにスポットがあたっていないんだよと答えた。

そして、わたしがこんなに寂しさを感じてしまうこと、それは自我が未確立だからとのことだった。

 

愛されたいんだろうと。

結局誰に愛されたいかって言ったら、母親だろうと言われた。

いくら恋人をつくっても、

わたしの歪んだ愛されたい感情を恋人では耐えることができないと。

いくら恋人ができたとしても、

いまの寂しさが消えることはないんだとも言われた。

 

わたしはひとりだ。

ひとりでいるのがいちばん傷つかないで済む。

と、思うことにした。

いや、本当はひとりでいることが寂しくて寂しくて仕方がないのに、

人とうまい距離感で付き合うことができないのだ。

 

母親は言う。

あなたは対人関係になんの問題もないのに、なんで社会に出られないのかと。  

 

そんなことない。わかってない。

わたしの何にもわかってない。

 

じゃあ、自我を確立するにはどうしたらいいのか。

それは人の中で生きることらしい。

わたしにとっていちばん難しいことだ。

自我はじぶんでつくろうと思ってつくれるものじゃない。

他者と関わって、他者とじぶんの違いに気づくこと、まわりの人たちがわたしに与える評価、それがだんだんじぶんをつくるんだと、主治医は言っていた。

 

寂しさに効く薬なんかはなくて、

だからわたしがいま処方されている薬は

本当に本当に補助的なもので、  

根本的な治療にはならない。

怖いけど、

じぶんが一歩踏み出して、

じぶんが何かを変えなければ、 

わたしはずっとこのままだ。

だから頑張らないといけないのだ。

 

まだ若いんだから、

これからのよりよい人生をつくっていけるよってよく言われるけど、  

もう何年言われてるんだって話。

 

ほんとは愛されたい。

ほんとは抱きしめられたい。

でもそれはすごく幼児的な欲求だってことを 

わたしはよくわかっている。  

だからいまのわたしには誰かと健全なお付き合いをすることはできない。

それは、相手にもすぐに伝わるものだから。 

どうせ、じぶんじぶんになって、

苦しめるだけだから。負担になるだけだから。 

そんな惨めに傷つけたくないし傷つきたくもない。

 

カウンセリングを受けることになった。

主治医はカウンセリングを結構重要視している。

いまのわたしにとって必要なことだと。

 

話がまとまらない。 

でも思うのは、

ふつうになりたかったなってこと。

パーソナリティ障害になんかなりたくなかった。

でも、そんなことを言ってもどうにもならなくて、

いままでの生きてきた積み重ねがいまのじぶんを形成してるんだから、

これからをどう生きていくかを考えなきゃいけないんだ。

 

いつか心から誰かのことを愛して

いつか心から誰かに愛されて、、

諦めてひとりでいるって言いながら

微かな想いがあるのも正直なところだ。

 

がんばろうね。

 

初めて精神科に入院したときのこと。

わたしが初めて精神科に入院したのは、25歳のときだった。

 

そのときは本当に心身ともにボロボロだった。

寝ても覚めても気持ちは落ちたまま。死にたい毎日。一日中リストカットをしてはその写真を撮った。食べ物を受け付けず、唯一食べられたアイスだけを抱えて食べ続け、2ヶ月足らずで20kg太った。大量の処方薬でまともに歩くことすらできない(ODではなく)。何ヶ月も微熱が続き、終いには高熱が下がらなくなった。

 

そこまで落ちても入院は嫌だった。じぶんが精神科に入院するなんて思ってもいなかった。当時は精神科でワーカーをしていたし。。精神保健福祉士の発言として不適切なのかもしれないけど、正直なことを言ってしまえば、精神科の入院歴ができることに抵抗もあったし、単純に、じぶんがどんな生活を送るのかが見えなくて怖かった。

 

それくらい入院したくなかったけど、からだの限界も感じていた。

外来の主治医は、毎週の診察の度に太り、傷を増やしてくるわたしに言った。

来週の診察までに100gでも体重が落ちてたら外来継続。それができなかったら入院も考えよう。と。

わたしはその場で泣きながら答えた。

無理です。入院します。と。

体重のコントロールなんて不可能だった。傷を増やさないことだって不可能だった。もう入院しかないと震えながら決心した。

 

入院当日も39度近い熱があり、すぐに点滴につながれた。

 

診察では毎回泣いた。

 

まわりがどんなに退職を勧めても、仕事に戻りたくて戻りたくて仕方なかった。やっとできた就職先を失うのが怖かった。ワーカーの仕事もやめたくなかった。

隙を狙っては職場に電話をしていた。とんだ迷惑な話だ。業務中の上司に、わたしがいなくなれば新しい人を雇えるのに、と泣きながら訴えながらも、辞めさせないで待っているから、という言葉が欲しくて、その言葉にすがった。

 

病棟でもじぶんを傷つけた。刃物がなくたってじぶんを傷つけることはできた。その度に心も傷ついた。毎日が戦いだった。

 

...この期間のことも全部日記に残している。

今でも読み返すとそのときのことが鮮明に思い出されてすごく痛くて苦しいのだけど、

絶対に忘れたくないことばかりだから、あのとき記録をつけてくれていたじぶんにありがとうと言いたい。

 

入院先の主治医にもスタッフにもわたしは恵まれた。

入ってみたら、全然怖いところではなかった。むしろわたしはそこに居心地のよさを覚えてしまったのである...。

 

結局、3ヶ月半程の入院生活を送って退院となった。

 

すぐに職場に復帰したけれど、そんなにうまくいくはずもなく、再び休職。

わたしは入院に依存した。入院することがあんなに嫌だったのに、戻りたくてしかたがなくなったのである。

 

そして、入院したい、入院したいと騒いだ。

 

入院先の主治医は、諭すように言った。

何かあったら入院すればいいと思わないでください、入院に頼りすぎないでください。と。

今ならわかる、入院したって何かが劇的に変わるわけじゃない。退院後、どうやって生活していくのかが大切なのである。でも、そのときはわからなかった。

 

わたしは、1ヶ月限定、という条件で、再入院した。

前回の退院から1ヶ月しか経っていなかった。仕事には10日間しか行けなかった。情けなかったけど、ほっとした。

 

 

初めての入院のときはこんな感じだった。

いまは7回目の入院中だ。

ただ、じぶんの体調も、入院の位置づけもだいぶ変化している。

またそのことについては、すこしずつ書ければと思う。

略歴(?)。やっぱりPSW復帰したいみたい。

最近、子どもの頃どんな子だったかって聞かれる機会が多いから、書いとこ。

 

 

明朗活発、目立ちたがり屋な、どこにでもいる小学生。

あ、小4のときに親が離婚した。

 

担任とうまくいかず、学校が嫌いで、ひたすらに勉強ばかりしていた中学生。

親は親、わたしはわたし、と考えるようになったけど、お父さんのことが忘れられなくて、よく枕を濡らしていた。

頑張っても頑張ってもどうにもならないことがあると知った。

学校の相談室で授業をサボりながら仕事紹介本を読んで、臨床心理士になると決めた。

 

勉強だけでは自分の地位を確立できないと実感させられた高校生。

片親の子や複雑な家庭環境にある子はじぶんだけじゃないとわかってきた。

心理学を学べる大学に行くことだけが目標だったのに、学校は休みがちで大学受験も失敗。

学校に行けない体調に悩まされた高3のとき、内科ではじめてよわーい安定剤を処方された。

 

考えたこともなかった学校、そして教育学部に入った大学生。

サークルもバイトもせず、単位だけをかき集める毎日。長い夏休みはベッドの中で動画をみて過ごした。

アピールできることも、やりたいこともなく就活戦線から離脱。わたしは社会に居場所をもてないと思った。

中学生の頃のわたしが、大学生のわたしを支える。心理学や精神医学は興味深かった。臨床心理士とは違うけど、魅力をもてる仕事があることを知った。精神保健福祉士の養成校を受験、進学が決定。

 

養成校に通った23歳。

...もう子どもじゃないな。

精神保健福祉士の国家試験のために勉強に精を出した1年間。

ともだちはひとりもできなかった。

無事、国家試験に合格。主席で卒業。

大学時代あんなに苦労した就職という2文字は、1度の面談だけであっけなく手に入った。病院勤務の精神保健福祉士になる。

 

仕事を始めて2年目の秋頃から心身の体調不良が続く。

過度のストレスからくるうつ病と診断された。じぶんでは、「かどのすとれす」が何かわからなかった。今やっとすこしわかるようになってきた...ような気がする。あの職場はわたしに合わなかった。

 

そして、仕事をやめて、入退院を繰り返している。ひとり暮らしも始めた。

デイケアや就労移行、ヘルパー、訪問看護などいろんなサービスを使った。

自立支援医療、傷病手当、障害年金障害者手帳などいろんな制度にお世話になっている。

皮肉なことに、精神障害当事者になって、わたしは精神保健福祉士としてのスキルをすこしあげたと思う。

 

精神保健福祉士の仕事は好きだ。

いつかはまたこの仕事がしたい。それが長期目標。

 

 

なんだろう。

覚書程度に書き始めたのに、最終的にはワーカーの仕事にこだわるじぶんがいた。

じぶんの経験だけでモノを言うワーカーだけにはなりたくないんだけど、

でも、じぶんの経験は武器にしたい。

じぶんの身をもってもっともっと勉強しよう。

 

いまは入院中だけど、前向きだ。